囚われない思考法

先日、これまで積読本と化していた「サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福」を読み終えた。

 

サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福

サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福

 

 

本書を読み、それなりに内容を理解し、自分なりに解釈するのに必要な知識量が、自分のそれとあまりにマッチしないので、書評など書くことはできないと思っている。しかし、部分的にではあるが、本書を読むことで学ぶことができた部分に関して、備忘録を残しておきたいと思う。

 

日常生活を送っていると、社会に馴染めなかったり、生きづらさを感じてしまったりする場面が、多かれ少なかれ誰にでもあるのではないかと思う。例えば、会社で仕事をしているときに、同僚との共通認識のズレなどで仕事がやりづらく感じることは、個人的には日常茶飯事だったりする。自分の常識は他人のそれでは無いのだ、と自分に言い聞かせることで、どうにかやり過ごすことができている。しかし、時には自分のことを責めたり、落ち込んだり、自己嫌悪に陥ることがある。

 

では常識とは何なのだろうと、ふとした瞬間に考えたりする。辞書には以下のようにある。

 

一般の社会人が共通にもつ、またもつべき普通の知識・意見や判断力。

(参照:デジタル大辞泉の解説)

出典:常識(じょうしき)とは - コトバンク

 

常識の定義の中に、「普通」が出てきた。同じように「普通」も辞書の定義を見てみる。

 

特に変わっていないこと。ごくありふれたものであること。それがあたりまえであること。また、そのさま。

(参照:デジタル大辞泉の解説)

出典:普通(フツウ)とは - コトバンク

 

あたりまえ。同じように辞書で、、、とやっていると永遠に終わらなさそうなのでここまでにしておく。上記にあるように、「一般」、「社会人」、「ありふれた」、「あたりまえ」といったキーワードが目につく。これらのワードの意味するところが分からないということではなく、むしろ普通に知っている。ただ、そもそも「一般」ってなんだろう、「社会人」って誰を指すのだろう、というようなことを考え出すと、なんとなくもやっとした曖昧な答えしか見つからないところに、妙な違和感を抱いてしまう。

 

「サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福」を読んでみると分かるが、人類は数百万年という途方もない時間的スケールで進化を遂げてきた。その間にはいくつかターニングポイントがあった。その中の一つが、今からおよそ七万年前の認知革命である。何らかの言語の出現により、食物の在り処や、大型動物からの避難地などの情報をやり取りし、見ず知らずの者同士が協力し、人類が生き延びた。やがて、大陸間を集団で移動し、主要な大型動物相をも絶滅に追い込み、ホモ・サピエンスが人類種の中で唯一生き残った。人類におけるこのような集団的行動は、"虚構"の存在無くしては語ることができないと、筆者は主張する。互いに共通の言語で意思疎通を図ることで、相手のことを知り、仲間となり、同じ概念や神話を信じるようになる。一個体としての物理的、生物学的ポテンシャルではなく、それらが社会的、精神的側面から結びついた共創機構により、人類史上の数々の偉業が成し遂げられたのだ。

 

つまり、私たちが生きている世界は虚構だらけなのだ。虚構と言うと、字のごとく虚しい気持ちになりそうだが、私たちは生まれたときから虚構の中で生活しているので、虚構の存在しない世界を知らない。上述した認知革命の説が正しいとするなら、今日の私達を取り巻く国家や政治、人権、社会的規範、常識などは、当時から数万年の時間をかけて脈々と受け継がれている"虚構"によるものということになる。自分が働いている会社だってそうだ。法人は物理的に存在するものではないが、法的にその存在や権利は認められる。目指す理念や経営方針を従業員全体で信じることができるので、互いに協力して仕事を進めることができるし、その会社で働く以上はむしろそのように振る舞うことが求められる。ただし幸いなことに、今日では人権や法制度という名の"虚構"も信じられているので、自分の信じる"虚構"との不一致を感じ、不満に感じるならその会社を辞めるという選択肢も、当然の権利として保証されている。

 

囚われる必要はないのだ。私たちの信じる世界は虚構なのだから。現代に生きるものとして、虚構だから何でも許されるという訳では勿論ない。しかし、それに囚われることで窮屈さを感じる必要は無いし、それを回避する方法として、私たちを取り巻く世界観がどのように成り立ち、構成されてきたかを学ぶことは、大いに意義があることではないかと思う。私たちは社会的文脈で生きる存在であると同時に、物理的、生物学的に存在する一個体なのである。必ずしも既存の共通概念にフィットする訳ではないことを頭の片隅に置いておくことは、戦略的に自己を守ることに役立つのではないかと思う。