Pythonのrequestsライブラリインストール時のトラブル対処

先日、SORACOM LTE-M Buttonを購入。IoTをかじっていく予定。

SORACOM LTE-M Button powered by AWS

SORACOM LTE-M Button powered by AWS

以下記事を参考にButtonを押し、AWS IoT 1-Click → AWS Lambda → LINE NotifyでLINEに投稿できる仕組みを構築。
SORACOM LTE-M Buttonでお母さんに親孝行しようと思った話(元気やでボタン) - Qiita

LINEトークンを利用して投稿するLambda関数をPythonPython 3.7.3)で記述。Lambda側ではpipで個別にライブラリをインストールできないため、Lambda関数用のPythonスクリプトとローカル側でインストールしたrequestsライブラリをzipで圧縮し、Lambdaにアップロード。pipの際は2.x系ライブラリをインストールしないように、python3コマンドのmオプションでpipを指定して実行。しかし、requestsライブラリをインストール中に以下エラー発生し、しばし苦戦。

$ python3 -m pip install requests -t .
Collecting requests
…以下省略…
distutils.errors.DistutilsOptionError: must supply either home or prefix/exec-prefix -- not both

とりあえずエラーメッセージでぐぐってみると、ホームディレクトリに.pydistutils.cfgを作成し、以下記述でエラー回避可能とのこと。

[install]
prefix=

参考にしたサイト。
flaskのインストール失敗した - ゆずめも
python - DistutilsOptionError: must supply either home or prefix/exec-prefix -- not both - Stack Overflow

【書評】イノベーションのジレンマ

イノベーションのジレンマ 増補改訂版 (Harvard Business School Press)

イノベーションのジレンマ 増補改訂版 (Harvard Business School Press)

 

 

いわゆる"大企業”(本書にならって以下、実績ある企業と記載する)が一方的に悪いわけではない。勿論、ここで言う悪いというのは道徳的な良し悪しに関してではなく、市場経済での勝ち負けに関してである。実績ある企業が気づいたときには時すでに遅しなのである。誰に負けるのか。その市場*1のシェア二番手でも三番手でもない。もともとその市場にいなかったはずの"新規参入企業"である。実績ある企業がシェアを占める上位の市場*2よりも下位の市場から新規参入企業が徐々に侵食し、実績ある企業に対する需要を奪うのだ。

株主からの期待に応え、市場における企業のポジションを維持するためには継続的に売上を上げ、利益を獲得していく必要がある。単純に現状維持で済む話ではなく、その市場の需要に耐えうる、且つ他社を凌ぐ技術やサービス品質を提供していかなくてはならない。そのためには利益率を上げていき、企業として成長していく必要がある。そうなると、実績ある企業はおのずとより大きな売上と利益をもたらす上位の市場へと移行する。いったん上位の市場に移行すると、もう後戻りはできない。下位の市場へ戻ったところでその企業を成長させるだけの利益が得られないからである。

その空きが出た下位市場に登場するのが新規参入企業である。初期の段階では扱う技術やサービス品質は比較的低性能であるものの、価格は抑えられていることが多い。性能面に関しては技術的知見を蓄積し品質改善を重ねていくことで、やがてその市場の需要を満たす程度の水準に到達する。求められる性能が同程度であるとき、当該性能はその技術やサービスを選択する指標ではなくなってしまう。価格が次の選択軸になるのである。性能が同程度のものを担保できているのであれば、無論低価格のものが選択される。実績ある企業はその市場の期待、すなわち顧客の期待に応えようと既存の技術やサービスの品質を向上させるために経営資源、いわゆるヒト・モノ・カネを集中的に投入する。それに伴い、技術やサービスの価格は新規参入企業のそれに比べ割高になってしまう。顧客の耳に熱心に耳を傾け、顧客の望む製品を作り上げたはずなのに、蓋を開けてみると新規参入企業に市場でのパイを奪われてしまっているのである。なぜこのような事態となるのか。新規参入企業にあって、実績ある企業に欠けているものがあるのだろうか。技術力だろうか。市場での実績を考えれば、むしろ技術力は新規参入企業と同等、もしくは上回るレベルにあると言っていい。経営判断のスピードだろうか。確かに実績ある企業の方が新規参入企業に比べ組織的に小回りがききにくいというのは想像に難くない。しかし、実績ある企業としてはこれまでの実績から予測しうる事柄を網羅し、売上や利益の見込みを立て、慎重に戦略を立てなければならない。安易に失敗できる環境に無いのである。顧客の意見に忠実であったにも関わらず市場で大敗を喫し、気づいたときには下位市場に戻ることもできない。実績ある企業の抱えるジレンマがここにある。

そもそも実績ある企業と新規参入企業の両者では経営戦略が根本的に異なる。前者は上述したように既存の顧客を満足させるために技術やサービスの品質を高めていく。本書ではこれを持続的技術と読んでいる。一方、後者は自分たちの技術やサービスにニーズが有るかどうかを自分たちですら把握できていないのである。これまで世に無かったものをリリースし、顧客が気づいていない価値を提供することで市場での支配権を獲得しうる。これを破壊的技術と呼んでいる。技術向上のペースは、市場での期待値を上回る可能性が往々にしてある。特に持続的技術の場合、基本的には今ある技術をベースにして信頼性や利便性を高めるが、市場の求める水準を超過し、過剰品質になるケースも少なくない。一方、破壊的技術の場合は技術的な真新しさというよりは顧客の予想し得ない用途での製品やサービスを提供することで価値を生む。上述したように市場の期待を満たす最低限の品質を保証し、価格を抑えることができる。新規参入企業は実績ある企業よりも企業規模としては比較的小さく、低価格でも十分利益を上げることのできるコスト構造を有している。

実績ある企業に勝ち目は無いのだろうか。上述したように根本的に戦略を見直さない限り勝ち目はない。そもそも顧客自体が気づいていない価値をもたらすような新しい技術がテーマになるような市場において、既存の顧客の意見をもとにした技術やサービスが勝つ可能性は極めて低い。当該市場に適した戦略を打つことのできる組織を構成する必要がある。本書では、組織の能力は資源(ヒト・モノ・カネ)と価値基準*3で決定されると述べられている。実績ある企業はこれまでの成功体験をもとに各業務が標準化され、価値基準や業務プロセスが従業員全体に広く共通認識化されている。そのため、同じような問題が発生したときには対処しやすい傾向にあるが、これまでの経験では賄えないような新しい問題に対しては苦戦を強いられがちになる。一方で新規参入企業は組織が比較的初期段階にあり、価値基準やプロセスが成熟しきっておらず、組織の能力はおもにそこに所属する従業員に左右されやすい。その分組織としての柔軟性は比較的高く、実績ある企業に比べて新しい問題に対処しやすい。

組織を再構築するにはいくつか方法が考えられる。他企業を買収したり、スピンアウト組織を設立したり、既存の事業部門を横断したチームを編成したりするなどの方法がある。どのような方法を取るべきかはまずターゲットにする市場を考え、現在の組織に何が不足しているのかを把握し、その組織再構築により何を得たいかによって異なってくる。例えば他企業の価値基準やプロセスを取り入れたい場合、当該企業を買収したとしても事業部門は統合すべきではない。統合してしまうと買収先の価値基準やプロセスが維持されないためである。求める価値基準やプロセスを維持できる組織単位で業務を遂行させるべきである。

破壊的技術が市場にもたらす変化にうろたえることなく、実績ある企業が新規参入企業に対抗していくためには、ターゲットとする市場に最適な規模の組織に対し、既存の組織とは独立した価値基準やプロセスのもとで事業運営を任せることが重要である。そして、目先の利益を優先し失敗を恐れるような方法ではうまくいかない。初期の努力は学習の機会と捉え早く失敗し、データをもとに軌道修正していくような俊敏性が求められる。

 

*1:本書ではバリュー・ネットワークと読んでいる。

*2:ここではその市場での売上規模により、上位、下位と区別する。

*3:技術やサービスの性能指標の順位付けやコスト構造を決定する際の基準。

囚われない思考法

先日、これまで積読本と化していた「サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福」を読み終えた。

 

サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福

サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福

 

 

本書を読み、それなりに内容を理解し、自分なりに解釈するのに必要な知識量が、自分のそれとあまりにマッチしないので、書評など書くことはできないと思っている。しかし、部分的にではあるが、本書を読むことで学ぶことができた部分に関して、備忘録を残しておきたいと思う。

 

日常生活を送っていると、社会に馴染めなかったり、生きづらさを感じてしまったりする場面が、多かれ少なかれ誰にでもあるのではないかと思う。例えば、会社で仕事をしているときに、同僚との共通認識のズレなどで仕事がやりづらく感じることは、個人的には日常茶飯事だったりする。自分の常識は他人のそれでは無いのだ、と自分に言い聞かせることで、どうにかやり過ごすことができている。しかし、時には自分のことを責めたり、落ち込んだり、自己嫌悪に陥ることがある。

 

では常識とは何なのだろうと、ふとした瞬間に考えたりする。辞書には以下のようにある。

 

一般の社会人が共通にもつ、またもつべき普通の知識・意見や判断力。

(参照:デジタル大辞泉の解説)

出典:常識(じょうしき)とは - コトバンク

 

常識の定義の中に、「普通」が出てきた。同じように「普通」も辞書の定義を見てみる。

 

特に変わっていないこと。ごくありふれたものであること。それがあたりまえであること。また、そのさま。

(参照:デジタル大辞泉の解説)

出典:普通(フツウ)とは - コトバンク

 

あたりまえ。同じように辞書で、、、とやっていると永遠に終わらなさそうなのでここまでにしておく。上記にあるように、「一般」、「社会人」、「ありふれた」、「あたりまえ」といったキーワードが目につく。これらのワードの意味するところが分からないということではなく、むしろ普通に知っている。ただ、そもそも「一般」ってなんだろう、「社会人」って誰を指すのだろう、というようなことを考え出すと、なんとなくもやっとした曖昧な答えしか見つからないところに、妙な違和感を抱いてしまう。

 

「サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福」を読んでみると分かるが、人類は数百万年という途方もない時間的スケールで進化を遂げてきた。その間にはいくつかターニングポイントがあった。その中の一つが、今からおよそ七万年前の認知革命である。何らかの言語の出現により、食物の在り処や、大型動物からの避難地などの情報をやり取りし、見ず知らずの者同士が協力し、人類が生き延びた。やがて、大陸間を集団で移動し、主要な大型動物相をも絶滅に追い込み、ホモ・サピエンスが人類種の中で唯一生き残った。人類におけるこのような集団的行動は、"虚構"の存在無くしては語ることができないと、筆者は主張する。互いに共通の言語で意思疎通を図ることで、相手のことを知り、仲間となり、同じ概念や神話を信じるようになる。一個体としての物理的、生物学的ポテンシャルではなく、それらが社会的、精神的側面から結びついた共創機構により、人類史上の数々の偉業が成し遂げられたのだ。

 

つまり、私たちが生きている世界は虚構だらけなのだ。虚構と言うと、字のごとく虚しい気持ちになりそうだが、私たちは生まれたときから虚構の中で生活しているので、虚構の存在しない世界を知らない。上述した認知革命の説が正しいとするなら、今日の私達を取り巻く国家や政治、人権、社会的規範、常識などは、当時から数万年の時間をかけて脈々と受け継がれている"虚構"によるものということになる。自分が働いている会社だってそうだ。法人は物理的に存在するものではないが、法的にその存在や権利は認められる。目指す理念や経営方針を従業員全体で信じることができるので、互いに協力して仕事を進めることができるし、その会社で働く以上はむしろそのように振る舞うことが求められる。ただし幸いなことに、今日では人権や法制度という名の"虚構"も信じられているので、自分の信じる"虚構"との不一致を感じ、不満に感じるならその会社を辞めるという選択肢も、当然の権利として保証されている。

 

囚われる必要はないのだ。私たちの信じる世界は虚構なのだから。現代に生きるものとして、虚構だから何でも許されるという訳では勿論ない。しかし、それに囚われることで窮屈さを感じる必要は無いし、それを回避する方法として、私たちを取り巻く世界観がどのように成り立ち、構成されてきたかを学ぶことは、大いに意義があることではないかと思う。私たちは社会的文脈で生きる存在であると同時に、物理的、生物学的に存在する一個体なのである。必ずしも既存の共通概念にフィットする訳ではないことを頭の片隅に置いておくことは、戦略的に自己を守ることに役立つのではないかと思う。

 

 

 

 

 

 

 

褒めて伸ばすというより、褒めて考えさせるという発想について。

先日、会社のチームの方々と行った飲み会での一コマ。

とある先輩(Aさん)に、「T君(私のこと)のメールって無駄が無くて良いよね。」と言われた。

私はそれを、「合理的で無駄を省いている、メールとしての良い例」という風に、お褒めの言葉として解釈した。

Aさんは、別の方(Bさん)に対して、「Bさんのメールは、受け手にすごく寄り添った、親切な書き方をしてて、すごく良いと思う。」

なるほど。俺だけ褒めてたわけじゃないのね。というか、案に俺のメール不親切ってこと言ってる?

続けてAさんはチームリーダー(Cさん)に対しては、「Cさんのメールは、T君とBさんの間をとった、絶妙な感じのメールで、好きっす。」と。

うん。まあなんか全員褒めてんね。誰かだけ褒めようって話でもないのね。

 

メールはたしかに仕事の多くの時間(中にはメールはなるべく利用せず、Slackなどのチャットツールを利用する会社もあると思う)で登場し、その文面は書き手の個性というか、為人やセンスみたいなものが遺憾なく発揮されると思う。というより、メールに限らずこのようなブログも含め、文章に関わる話については同じことが言えるはずだ。なぜなら、使う(使うことのできる)言葉はこれまでの生き方や、その人の思想が否応なく反映されるからだ。

 

メールは仕事を円滑に進める上で、正直伝わってなんぼだと私は思っている。なるべく簡潔にがモットーで、必要最小限の内容で留めたい。ましてやビジネスメール特有の冒頭の、

「おつかれさまです。(社外であればお世話になります等)○○です。」

や、文末の

「以上、よろしくお願い致します。」

などは正直堅くてあまり使いたくはない。しかし、皆ごく当たり前のように使っており(もちろん他の会社内でのお作法はそれぞれあるだろうが、少なくとも自分の会社内の話)、礼儀がなってないなこいつ、と思われて相手にされないのも癪なので、渋々使っている。

ただ、メールの受け手は人間だ。送り手に対する感情や、メール本文から感じ取る言葉のニュアンスなど、受け手によりそれぞれ違う。同じ受け手であっても、日によって解釈の仕方がブレることもあるだろう。送り手としては、自分に対する不本意な負の感情を受け手に抱かせ、損したくないのであればとりあえず上述したようなメールの基本的なお作法は押さえ、丁寧めに書くのが無難だろう。ただし、冗長になるとかえって元々伝えたかったりお願いしたかったりするポイントが分かりづらくなってしまうケースもあるだろう。内容を簡潔に伝え自分の意図を的確に汲み取ってもらい、かつ受け手から快くビジネス的協力体制を得られるかが、メールの極意ではないかと私は思う。そこはもはや送り手のセンスの話になると思う。

 

私はここで、ビジネスメールのHow Toを論じたいわけではない。私が今回、この件から最も学びを得たポイントは、Aさんの他者に対する評価の仕方だ。Aさんは各々(私、Bさん、Cさん)のメールのお作法に対して良い点を挙げているだけで、誰のそれについても明示的な否定をしている訳ではない。ものすごく簡単に言うなら、「三者三様でそれぞれがいいところがあるね。」や、「みんな違ってみんな良い。」的な要約になるのではと思うが、私はふと、この件には日常の他の出来事にも転用できるような、抽象化できる概念が存在するように感じたのだ。

人は往々にして他人の短所に意識が集中しがちではないかと思う。例に違わず自分もその中の一人であると自覚している。例えば、仕事上で、後で資料を送ると言って以降、いっこうに資料をよこさないやつ。忙しぶるんじゃないよ。メールに添付して送るだけだろ?なんていう場面はよくある話だと思う。ただ、きっとその人の長所もあるはずで、そうなんだけど、なんというか頭に残りにくいし、できて当然でしょ!みたいな評価を下してしまう時が自分は正直ある。

Aさんは飾ることなく、自分の言葉で他人の良い点のみを伝えていた。飲み会の場でもあったし、どこまでの意図があったかはよく分からないが、少なくとも、決して優劣をつけるような言い方はしていなかったし、誰が一番だみたいな話でもなかった。私は、自分に対する評価を聞くのと同時に、自分以外の人に対する評価も聞くことで、自分に足りない点は何なのか、を考えを巡らせることができた。また、こうしてブログを書くことで他人を褒めることについても考察できている。

人は褒められると嬉しいと思う。そんな単純な話をするつもりではなかったのだが、結局そうゆう単純な出発点から、良い思考を巡らせることができた、そんな話でした。

 

 

取捨選択

先月までNHKオンデマンドに加入しており、過去放映された「プロフェッショナル 仕事の流儀」の中のいくつかを見ていた。

中でも印象的だったのが、teamLabでお馴染みの猪子寿之氏の回。

 

www.nhk-ondemand.jp

氏は白色の同じTシャツを20枚も持っているのだそうだ。また、決まって毎朝の食事は納豆にキムチと生卵を混ぜたもの。

同番組では出演者に対し毎度お決まりの質問を投げかける。

 

「あなたにとってプロフェッショナルとはなんですか。」

 

氏いわく、

 

「何かを捨てている人なんじゃない?(笑)」

 

。。。確かに同じTシャツを何十枚も持っていたり、決まった朝食以外はとらないスタイルは、氏にとって最も貴重である、何かを創作する時間を捻出するためなのであろう。

 

万人皆平等に与えられている有限の時間の中では、何かを選んで何かを捨てる他ない。個人的には”選ぶ”ことに意識が行きがちだが、捨てることもまた、ある種選択行為なのだと考えさせられた。

 

なんか同じこと昔の自分もつぶやいてたなぁと思い、ふと昔の自分のツイートを振り返ってみたところ、同じような趣旨のことをつぶやいていた。

 

 

生意気な。これは完全に良いフレーズ言ってやった感が出すぎている。

 

しかし、当時の小生の言っていることは、なんとなく今話題にしていることに通じている気がする。限りある時間の中では、本当にやりたいことは何なのかと己に問いただし、そうではないものは思い切って捨てる覚悟が必要なのだ。そうしないと全部中途半端になってしまう。

 

とりあえず、直近は以下捨てて生活してみる。

  • 丁寧な暮らし(自炊とか、珈琲を豆から引いて淹れるとか)
  • 無意識にやってしまうSNSのスクロール
  • 生活残業
  • 筋トレ
  • オンライン英会話

捨てない方の選択については、また別記事にて。

【書評】投資家が「お金」よりも大切にしていること

 お金を正しく理解することで、お金よりも大切にすべきことを読者に問いかける。ペットボトル1本とってみても、その裏側には数え切れないほどの利害関係者にお金が行き渡っている。お金の真の意味とは何か?

 わたしたちは存在するだけで商品やサービスを消費し、誰かの需要となっている。経済活動的には誰もが皆価値があり、虚業など存在しない。しかし、大事なことはその価値を高めようと”真面目”に行動することである。”真面目”とは目指したい世界や社会を明確に提言し、自らの役割を全うしようと本気になることである。

 

投資家が「お金」よりも大切にしていること (星海社新書)

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