褒めて伸ばすというより、褒めて考えさせるという発想について。

先日、会社のチームの方々と行った飲み会での一コマ。

とある先輩(Aさん)に、「T君(私のこと)のメールって無駄が無くて良いよね。」と言われた。

私はそれを、「合理的で無駄を省いている、メールとしての良い例」という風に、お褒めの言葉として解釈した。

Aさんは、別の方(Bさん)に対して、「Bさんのメールは、受け手にすごく寄り添った、親切な書き方をしてて、すごく良いと思う。」

なるほど。俺だけ褒めてたわけじゃないのね。というか、案に俺のメール不親切ってこと言ってる?

続けてAさんはチームリーダー(Cさん)に対しては、「Cさんのメールは、T君とBさんの間をとった、絶妙な感じのメールで、好きっす。」と。

うん。まあなんか全員褒めてんね。誰かだけ褒めようって話でもないのね。

 

メールはたしかに仕事の多くの時間(中にはメールはなるべく利用せず、Slackなどのチャットツールを利用する会社もあると思う)で登場し、その文面は書き手の個性というか、為人やセンスみたいなものが遺憾なく発揮されると思う。というより、メールに限らずこのようなブログも含め、文章に関わる話については同じことが言えるはずだ。なぜなら、使う(使うことのできる)言葉はこれまでの生き方や、その人の思想が否応なく反映されるからだ。

 

メールは仕事を円滑に進める上で、正直伝わってなんぼだと私は思っている。なるべく簡潔にがモットーで、必要最小限の内容で留めたい。ましてやビジネスメール特有の冒頭の、

「おつかれさまです。(社外であればお世話になります等)○○です。」

や、文末の

「以上、よろしくお願い致します。」

などは正直堅くてあまり使いたくはない。しかし、皆ごく当たり前のように使っており(もちろん他の会社内でのお作法はそれぞれあるだろうが、少なくとも自分の会社内の話)、礼儀がなってないなこいつ、と思われて相手にされないのも癪なので、渋々使っている。

ただ、メールの受け手は人間だ。送り手に対する感情や、メール本文から感じ取る言葉のニュアンスなど、受け手によりそれぞれ違う。同じ受け手であっても、日によって解釈の仕方がブレることもあるだろう。送り手としては、自分に対する不本意な負の感情を受け手に抱かせ、損したくないのであればとりあえず上述したようなメールの基本的なお作法は押さえ、丁寧めに書くのが無難だろう。ただし、冗長になるとかえって元々伝えたかったりお願いしたかったりするポイントが分かりづらくなってしまうケースもあるだろう。内容を簡潔に伝え自分の意図を的確に汲み取ってもらい、かつ受け手から快くビジネス的協力体制を得られるかが、メールの極意ではないかと私は思う。そこはもはや送り手のセンスの話になると思う。

 

私はここで、ビジネスメールのHow Toを論じたいわけではない。私が今回、この件から最も学びを得たポイントは、Aさんの他者に対する評価の仕方だ。Aさんは各々(私、Bさん、Cさん)のメールのお作法に対して良い点を挙げているだけで、誰のそれについても明示的な否定をしている訳ではない。ものすごく簡単に言うなら、「三者三様でそれぞれがいいところがあるね。」や、「みんな違ってみんな良い。」的な要約になるのではと思うが、私はふと、この件には日常の他の出来事にも転用できるような、抽象化できる概念が存在するように感じたのだ。

人は往々にして他人の短所に意識が集中しがちではないかと思う。例に違わず自分もその中の一人であると自覚している。例えば、仕事上で、後で資料を送ると言って以降、いっこうに資料をよこさないやつ。忙しぶるんじゃないよ。メールに添付して送るだけだろ?なんていう場面はよくある話だと思う。ただ、きっとその人の長所もあるはずで、そうなんだけど、なんというか頭に残りにくいし、できて当然でしょ!みたいな評価を下してしまう時が自分は正直ある。

Aさんは飾ることなく、自分の言葉で他人の良い点のみを伝えていた。飲み会の場でもあったし、どこまでの意図があったかはよく分からないが、少なくとも、決して優劣をつけるような言い方はしていなかったし、誰が一番だみたいな話でもなかった。私は、自分に対する評価を聞くのと同時に、自分以外の人に対する評価も聞くことで、自分に足りない点は何なのか、を考えを巡らせることができた。また、こうしてブログを書くことで他人を褒めることについても考察できている。

人は褒められると嬉しいと思う。そんな単純な話をするつもりではなかったのだが、結局そうゆう単純な出発点から、良い思考を巡らせることができた、そんな話でした。